多くの作品において、主人公やその仲間たちはそれぞれ個性豊かに多様性に富んだように描かれている。しかし、敵サイドの人間や味方に害のあるような存在は極端に描かれていたり、同じような存在としてひと括りにされていることも多い。これらは内集団バイアスや外集団と呼ばれるもので内集団バイアスとは自分のグループに属している人たちには好意的に思う反応である。そして何かのグループに属すことのきっかけはとても簡単である。
例えば、音楽のロックなど一緒のものが好き(ファン)であることや生まれた国が同じ(国民)など偶然によって帰属意識を感じていることが多い。「サピエンス全史」でも述べられていた通り、人は虚構(フィクション)を共有することで簡単に協力することができる。おそらく、日本に生まれて誇りを持っている人もイギリスに生まれていたらイギリス人としての誇りを持っていたと思う。そして、好きを共有していたとしてもいつまでも同じものが好きとは限らないし、飽きたときにも関係が密かどうかはわからない。少なくとも、グループに属しているという感覚がある限り、属したグループの人たちには好意的に感じる。
反対に属していないその他のグループの人たちは均質的に無機質に見える。これが外集団バイアスである。SFなどで描かれる宇宙人は多様性がほとんどばなくてみんな同じように考え地球を滅ぼそうとしていることが多い。
つまり、人間は”私たち”と”彼ら”に無意識に分けてしまう。内集団バイアスが強くなればなるほど外集団バイアスも強くなりやすい。
これを踏まえたうえで、多くの意見の対立ではどちらも、もう一方の相手を悪として述べていることが多い。そしてそれは自分の意見や考えに強く賛成しているほど相手への反論も強くなりやすい傾向にあると思う。自分の意見に賛同してくれる人を「仲間」と思い、自分の意見と対立したり反論する人を「敵」とする。どちらも相手は”悪”であり自分の正義のために戦っていると主張する。それはナチスも日本もアメリカもロシアもイギリスもフランスなども行ってきた自分の行為を正当化するためのやり方である。誰もが”正義”のために戦い、戦争して勝ったほうが負けたほうを”悪”とする。
正義には多くの多様性があり、リベラル化が進んでいる今では80億個の正義が存在していることになる。そんな時代のなかでは「加害者」とはいったい誰のことを言うのだろうか。個人の価値観を認める社会では誰もが被害者や加害者になる可能性がある。そして加害者になった人はその人自身の背景や心情の複雑さ(コンプレックス)を考慮されずにネットで炎上したり、有名人はキャンセルカルチャーのあおりを受ける。
もちろん、悪いことした人の中には反省もしていなくて後悔もしていない人もいる。しかし、複雑な心情や心の葛藤の中で過ちを犯す人もいるがそれを考慮できる人は多くないと思う。人は見知らぬ人の心情を理解するためにエネルギーを割くようには設計されていないから。
いじめの問題の複雑さもそこにあると思う。被害者がトラウマを抱えて、自殺を選ぶこともある。被害者が同情されたり、心配されたりするのはわかる。そして加害者のことを責めたくなる気持ちもあるとは思う。しかし、加害者が実は他の人に脅されていたのかもしれない。本心では仲良くしたいし、親友になりたいと思っていても周りに合わせていないと自分が標的になる可能性もあった。それは親友を裏切り、騙すような事もあり得る。「いじめをするな」というのは未熟な子供にとっては簡単なことではないと思う。
加害者も本心であるいじめたくない気持ちを押し殺していじめていたことがトラウマになって自殺を選ぶかもしれない。また、いじめの加害者と仲良くしている人たちはたとえいじめに加担していなくても同罪になるのか。もちろん、加害者の友達がいじめに加担している可能性は少なくはないと思う。しかし、相手がいじめているという事情を知らなくて友達として仲良くしている可能性もある。
加害者を全員許せとは言わないが少しだけども相手のことを考慮することは必要なのかも。しかし、多くの人は一元的な見方になると思う。人間はそのほうが楽に生きられるから・・・
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