思想の多様化
現代は過去に比べてはるかに「自由」が重視されている社会である。江戸時代や中世の西洋では身分性が当たり前であり、自由は誰もが保証されている権利ではなかった。もちろん、近代の民主主義や西洋の啓蒙思想によって自由は民主化されていったが特に大きかったのがヒッピー文化ある。ヒッピーとは1960年代以降に登場した、旧来の価値観に対するカウンターカルチャーを持った若者を指していた。彼女らや彼らは「ドラッグや性行為、ロックンロール」に熱狂しており、自由に生きることを社会に求めた。おそらく、過去数万年において誰もが自由に生きることを想像した人はいないと思う。
もちろん、自分が自由にすることを認めてほしいのなら、相手の自由を認めらければならない。そのため、様々な価値観が完全に否定されることがないため、多くの考えや思想が生まれた。それは恋愛についても同じように言えることである。
性愛の関係の多様化
昔、性産業に関してはキャバクラや水商売と言われるものには主に風俗やだった。しかし、現代においてはデリヘルやマッチングアプリなど多様な形で存在している。また、過去では援助交際と言われていたものが、新しくパパ活となり今までのものとは少し違ったものになったり、セフレといった恋人関係とは違う性愛の関係を結ぶようになった。セフレは様々な形があると思うが基本的には体の関係を目的とした人間関係だと思う。
しかし、体の関係だけが目的ならばデリヘルや風俗だけでも満たすことができる。また、パパ活などにお金を使わなくても、男性からしたら、風俗のほうがコストは安く済むことも多いと思う。なぜ、多くの人はデリヘルや風俗だけでなくてセフレやパパ活を求めるのか。
複雑な要因や個人の趣味や嗜好、背景も入ってくるが、一つの要因として人々が求めているのは性欲ではなくて性交欲だからかも。性欲は本能として性愛を求めるもの。成功欲は、性欲に人間関係や承認など他人とのつながり方にも評価がある欲求である。
そもそも、人は誰かに対して慈悲をもったり、優しくする人数には限りがある。日本人がアメリカで出世できない人の悩みに共感してたり、解決のために支援しようとすることはそう多くはないと思う。人のやさしさには限度があり、認知能力や行動できる範囲にも制限がある。
同じように他人の不幸には完全には同情できない。風俗やデリヘル嬢にも一定数、生活のためや遺伝的要素(知能や言語能力など)による貧困などによって体を売ることしかできない人がいる。
しかし、そんな状態だったとしても客はその現状に共感して支援しようとする人は少ないかなと思う。また、あくまで風俗やデリヘルは金融関係でつながっているので親密というよりはむしろ希薄であり、新しく進展する可能性が低い。つまり、性欲だけを満たしにくるか、満たせないことが多い。
また、風俗などにはあまりなくてセフレやパパ活にあるものとして日常的なコミュニケーションがあると思う。セフレにしてもパパ活にしても食事をする機会は一度くらいはあり、そのときに会話することだったり、一緒に出掛けるという体験が性欲以外の感情(誰かと関わりたいという欲求など)を満たして、さらに性欲も満たしてくれるのかもしれない。
性産業の存続
また別の考え方もあると思う。自分がデリヘルや風俗を使わなくても人に性欲がある限りは性産業はどんな形であり存続して、他人がデリヘルや風俗を使い続けるので自分が使ったところであまり変わらないと思う人。デリヘルに使うお金と同じくらい、世界的な組織(国境なき医師団など)や相対的貧困層を救おうとする正式な団体(貧困層が性産業に従事することは少なくない)に寄付する。それなら、別に不道徳な行いではなくなるかもしれない。
矛盾しているかもしれないが個人的な欲求(性欲)と社会的な大義(相対的な貧困層はできるのなら減らしたい)は分離していてもいいのかもしれない。そもそも、社会的な正義がきれいに個人の欲求に当てはまることはそうそうないのかもしれない。
そんなとき寄付ではなくてボランティアでもいいのではと思うかもしれないが、あまりおすすめしない。サハラ砂漠で水路を一つ作るとして、素人の自分がボランティアに行ったしてもせいぜい一個ぐらいだと思うが、自分の得意な仕事や好きな仕事で稼いだお金で水路建設のプロを雇ったとしたら、おそらく10倍以上、効率的になると思う。
とりあえず、価値観の多様化により性愛の対象との人間関係の在り方も大きく変化しており、人々が持つ欲求や本能的な欲求の満たし方は変化している。性愛の在り方として正解は存在しないと思うが、多くの人が求める性愛の在り方は時代の価値観から大きく影響される。必ずそれがうまくいくとは限らないし、悩んだり問題を抱えることもある。だからこそ、立ち止まることも必要になるのかもしれない。
コメント