小説家の苦悩
過去において小説家が自殺した件数は多いような気がする。芥川龍之介や太宰治、三島由紀夫など数を挙げればきりがないと思う。もちろん、彼らが経済的に豊かであったかと言えばそうではないし、地位や権力においても大きいわけではなかった思う。今でいうと明治や大正、昭和におけるインフルエンサーみたいなものだと思う。
貧しさゆえに自殺を選んだ人はいるがみんながみんなそうではないと思うし、むしろそっちよりも自分の考えや葛藤のゆえに命を絶つ判断をしたと思う。では、なぜ作家は執筆をつづけるよりも命を絶つ判断をしてしまうのか。言い換えると作家やクリエイターは創作において苦しみや絶望を感じてしまうのか。
もちろん、締め切りに追われたり流行についていけなくなり売れなくなるなど経済的な理由やプレッシャーやストレスもあると思う。今回は多くある要因の中から、創作における絶望についてフォーカスをしてみる。
創作物はすべてが模倣
前提として創作物はすべて何かの模倣によって生まれている。身近なものでも、スマホは電話機とパソコンを合体したようなものである。また、作品においても「鬼滅の刃」は大正時代を題材としているし、「[推しの子]」は芸能界をテーマにしている。模倣は完全なコピーというわけではなくて、むしろインスパイアとか参考にしているという意味に近いのかもしれない。
つまり、創作物は総じて0から1として生まれるのではなくて、新しくて斬新的なものの組み合わせのことである。そして、組み合わせる物自体が特殊である必要はない。スマホを例に出すと、それまでにおいてもパソコンや電話機は家庭においても一般的なものに近かった。電話機は今とは違い多くの家庭において一台はあったし、パソコンも「WINDOWS95」が発売されてパソコンが普通の家庭にも配置されるようになっていたからである。しかし、この二つが組み合わさったスマホは多くの人に衝撃を与えた。
アイデアのために
このようなことは創作物においても同じようなことがいえる。しかし、このようなアイデアを思いつく方法として、ひとつあるのはブレーンストーミングに近いものである。
これはいったん考えられる限りの組み合わせをすべて考えた後に、いったん組み合わせを考えることを放棄して散歩やサウナ、入浴など何かに没頭することはないがリラックスできるような状態(科学的にはデフォルト・モード・ネットワーク)になる。その、いづれかのタイミングで斬新的なアイデアが思いつくという方法である。これは「アイデアのつくり方」という本でくわしく説明されているものである。
重要なポイントは、いったん考えることを放棄するという点である。この点は科学的にもリラックスしている状態(デフォルト・モード・ネットワーク)のときは集中しているときよりも脳が活発に動いていることが研究から判明している。
しかし、自分が一生懸命に考えたすべての案が納得できず放棄することは精神的にもダメージが入ると思うし、自分の能力のなさを責めてしまうかもしれない。また、締め切りや期限があるのにのんびりとサウナや散歩でリラックスできるのかというと難しくもある。締め切りや期限を忘れて考えるべきテーマから離脱するのは簡単ではないと思うし、思いつかないかもしれないという不安はついてくる。
そして、このサイクルは自分が創作活動をする限り、毎回のように押し寄せてくる波である。このサイクルから離脱することもできるが、そうした場合は表面的で浅い作品になりやすい。それは、アイデアとして優劣はないが誰にでもわかりやすいからこそ深みやアイデアの面白さで言うと落ちてしまうことも多い。
つまり、1サイクルで必ず絶望する創作を行うか、表面的で浅くなりやすいリスクがあるが絶望というものから距離を置ける活動を選ぶか。
もちろん、現実はここまで単純ではないし、0か100かの単純な創作ではない。しかし、クリエイターが思いつめたり苦悩を抱えたりしている背景には、このような創作における絶望が裏に隠れているのかもしれない。
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