友達との距離感
よく、休みの日に友達と一緒に出掛けるとする。その友達は、自分よりも能力が高くて結果もたくさんだしている。だからこそ、信用できる相手なのだが、逆に反転して嫉妬したり愚痴をはいてしまったり、また極端な場合は崇拝して何でもできるからと思ってしまう。
自分の身近な人に対して親近感や信頼を置けることは多いと思う。しかし、身近で自分と似たような能力を持っていてさらに自分がかなわない相手の時ほどかえって妬んだり、もしくは歯が立たないからこそ神聖化してしまうことも多いと思う。愛ゆえの嫉妬心や愛があるから信仰することはよくあることだと思う。しかし、そもそも相手が友達や近い年代の場合は妬みや信仰心よりも先に信頼感が大切にされると思う。
友達としての関係性
要するに、友達としての信頼関係があるのに妬んだり敬ってしまうから衝突が起きたりするのだと思う。そもそも、友達というのは政治的な圧力が強い関係である。家族や血族などの愛情の関係にある場合は縛りは強いがその分だけ相手を支援したり助けたりすることが多い。
逆に貨幣だけでつながっている中国の労働者やバングラデシュの服を作っている人などは代替えが可能だが私たちはお金を通して彼ら・彼女らとかかわりを持っている。友情の空間は政治的な圧力はつよい。「友達だから」ということには説得力があるし、スパイト行動(連帯責任で相手がいなかったときに、相手がグループと同じ行動をとらなかったことに対する不快感から生じる行動)。しかし、愛情空間に比べて希薄でもある。なぜなら、あくまで直接的なつながりはなくフィクションを共有しているだけのことも多いから。同じ学校だから、同じ部活だから、同じバンドのファンだから。それが悪いというわけではないが、逆に流動性が高い。
しかし、友情空間でも強いつながりがあるときがある。それは、マイルドヤンキーやギャングなどの時である。ギャングにおいてはボスのことを「ゴッドファーザー」と先輩を「兄貴」、後輩を「弟分」と呼んだりして家族と同じように扱ったりする。
このように、もともと政治的圧力は強いがつながりは希薄な友情関係をずっと一緒に行動したり、心身を共にすることであえて家族のように政治的にも空間的にもつながりの強い愛情空間に持っていくこともできる。
このようにみてみると、友達として関係を結ぶことは社会的な欲求は満たせるかもしれないが、同時に人間関係における感情の問題や政治的な欲求にも対応する必要がある。
まとめ
友達との関係性は以下のようなものである
家族や血族に比べて同じように政治的な圧力(「友達だから」)などはあるが、つながりとしては希薄(流動性が高い)
友達になるのは些細なきっかけであり、特別なことは必ずしも必要ではない
幸福の資本論では、友達は幸福において必須ではないとも述べている。人間関係に悩んでいるとしたら、ぜひ一度考えてみてほしい。”友達”との距離感について・・・
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